「1試合でも多くのクリーンシートの勝利を。
今いろいろな選択肢があった中で、サッカーを選んできた」
4 DF 三浦紗津紀選手
マイナビ仙台レディースの選手に、これまでの歩みを振り返ってもらう「マイヒストリー」。それぞれのサッカー人生に物語があり、かけがえのない記憶があります。新シーズン第2回は日テレ・東京ヴェルディベレーザから加入した4DF三浦紗津紀選手です。仙台の堅守を支える頼もしいセンターバックに今の思いやこれまでの歩みを聞きました。
野球少女がサッカーチームに。浦和のアカデミー入団は「強肩」でつかみ取った?
――新シーズンが開幕し試合も進んでいますが、仙台での日々はいかがですか?
「楽しくやれています。最初は、昨年順位的に最下位だったこともあり、どんな感じかなと考えていたのですが、思っていたより声もよく出ているし、まだ勝てていないですけど、(取材は第2節終了後。マイナビ仙台レディースは第4節・新潟L戦で今季初勝利)失点0で負けていないので、ここから上がっていけるんじゃないかなっていう予感があります。若い選手が多いので、明るく元気に波に乗っていけば、上がって行けるチームなのかなと思います」
――改めて三浦選手のルーツについて伺っていきますが、東京のご出身ですね。
「はい。東京で生まれ育って、小学6年生で埼玉に行きました」
――三浦選手は6人兄弟と伺いました。小さい頃はどんなお子さんでしたか?
「そうです。兄弟はほぼ年子で、私は2番目です。うるさいっていうか……。常に集団の中で生きてきたのかな、と思っています。目立つことはあまり好きじゃないので、みんなの様子を見て生きてきた感じです」

――サッカーを始めたのは何歳の時で、どのようなきっかけでしたか?
「私は小学5年生で転校して、小6から埼玉で過ごしたんですけど野球をやっていたんです。チームに入って野球ができるとなったんですが、人数が揃わずチームが潰れてしまって。どうしようと思っていた時に、たまたま同じクラスの女の子がサッカーをやっていて、『サッカーやってみない?』って誘われて、やってみたのが最初でした」
――最初は野球だったんですか?
「はい。野球がずっとやりたくて。ポジションは内野の一番ボールが来るところ、ショートとかセカンドをやっていました。チームが1年で潰れてしまったので、数試合しかできなかったんですけど」
――サッカーの方向に進みましたが、ソフトボールなどの別の道は考えたりはしなかったんですか?
「はい。サッカーに行ったら、そこからはサッカーだけでしたね」
――友達に誘われて入ったサッカーチームはどんなチームだったんですか?
「小学校にある普通のチームでした。その後は浦和Lのジュニアユースに進みました。小学校からどこかのチームの下部組織に入りたいなと思っていました。誘ってくれた子と、いろんなところを受けに行って、レッズにたまたま受かっちゃって……」
――たまたま受かる場所ではないですよ。
「たまたまだと思いますよ。後々言われたんですけど、たまたまその年のセレクションでいろいろな運動能力を測定するテストがあって、『テニスボール投げ』があったんですよ。(野球経験者だから)めっちゃ有利で、そこで目立てて『お前はテニスボール投げで入ったんだよ』ってずっと言われてて(笑)」
サッカーの土台を作った浦和から、試合に出る喜びを感じた早稲田大学へ。
――いえいえ。それだけでは中学、高校と6年間続けていくことはできないです。浦和で過ごした6年間はいかがでしたか?
「やっぱりレッズは自分のサッカーの土台となるところ。サッカー観を育ててもらったのかなと思います。恩師や今でも何かあると一番に相談するような方と出会えました。清水(栞選手)も6年間やっていたし、清家貴子(ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンWFC)も6年間一緒にやっていました。私は怒られてばかりだったんですけど、その分忍耐強くなりました。当時の仲間で、今もサッカーを続けている人は多いかなと思います」
――プロになって当時一緒にやっていたような選手と同じチームになったり、WEリーグで対戦するのはどのような気持ちですか?
「昔から知っているその人と、同じで『変わらないな』というところだったり、『こんなこと、できるようになったんだ』みたいな発見もあって、めっちゃ面白いです。不思議な感覚でもありますよね」
――浦和での経験を重ねて、その後は早稲田大学に進みますが、これはどのような決断だったのでしょうか?
「浦和のトップチームに上がれませんでした。ではどうしようかとなった時に、将来のことも考えていました。親の考えもあり、良い大学へ行こうと。受験したら受かっちゃって。早稲田のサッカー部も強いので、『こんな強いところでできるかな』と思って、チームには入ろうかどうか迷っていたんですけど、先輩から『いつから練習に来ますか?』って連絡があって(笑)」
――チームに入らないという選択肢は、もうなかったんですね。早稲田大学での4年間はいかがでした?
「ユースの時にあまり試合に出れていませんでした。それもあって早稲田に入って、あまり試合出られないで終わるのは嫌だなって思っていました。チームにはたまたまセンターバックがいなかったこともあって、1年生から結構試合に出してもらえて、そこでちょっと人生が変わったかもしれません。サッカーは、大学ではもういいかなって思っていたんですけど、続けちゃう人生になっていましたね」
――試合に出られたことが何かを変えてくれました?
「そうですね。試合に出られなかったら就職してという人生だったはずでしたけど、『サッカー、まだやりたいんだな』と自分が感じる4年間でもあったのかなと思います」

日本代表の中で揉まれたI神戸のルーキー。新潟Lでは指導者との出会いで自信を取り戻す。
――その早稲田大学卒業後に進んだのが、INAC神戸レオネッサ。なでしこリーグで“新人賞”を取ったという記録があります。
「めちゃめちゃ苦しい1年でした。全然知らずにI神戸に行ったら、すごい選手がいっぱいいる。鮫島(彩)さんとか岩渕(真奈)さんもいました。強い人がいっぱいいて、そこに入っちゃったんですね。入っちゃったんで結構苦しくて……。そうそうたるメンバーの中に、センターバックで自分が入るという時もあって。求められることも多い。でも自分はまだまだそのレベルに達していないのに……。ルーキー時代はめちゃめちゃ怖いところに行っちゃったなと思います(笑)」
――それは鍛えられましたね。I神戸での1年目があって、その後はアルビレックス新潟レディースへ移籍しました。新潟は4年半と長かったですね。
「I神戸で自信を無くしてしまって、そこでやめてしまおうかという考えもあったんですが、新潟は大学の頃から声をかけて下さっていました。I神戸での1年目が終わる時も、『新潟でやらないか』と声かけてもらい、もう一回がんばろうと思って移籍しました。そういう自分の気持ちも分かってくれている監督さんと出会えて、自信取り戻せました。『サッカー、やっぱり楽しいわ』って思ってやることができましたね」
――その後、2021-21シーズンからWEリーグが誕生し、新潟ではどのような環境の変化がありましたか?
「練習時間が変わったのと、働いていたので、『やっとプロになれた』という感じでした。生活全部を試合やサッカーに向けることができる。体のケアや筋トレを少し変えて、筋肉量も上がった。増量したし、ご飯を食べさせられた時期だったかなと思います」
――新潟Lでの一番の思い出は?
「2023年に橋川(和晃)さんが監督として来てくれて、チームとしてすごく成長しました。チームも自分も、橋川さんと一緒にやれた。その経験があったからこそ、(2024-25シーズンに)日テレ・東京ヴェルディベレーザに行けたと思っています。その1年が印象に残っています」
――橋川監督は記者会見でも、理路整然と話してくれる方だなという印象です。どんな方ですか?
「そうですね。すごく計画的にチームビルディングをしている、やっぱり頭がいいと思います。選手とも、しっかりと人と人として向き合ってくれる。すごくやりがいというか、この人のために勝ちたいなっていう思いを持たせてくれた監督でした」
――そこで鍛えられて、東京NBへの移籍につながっていったということですか?
「私は東京NBさんから声がかかるような選手ではなかったと思います。でも、2023-24シーズンは新潟Lとしてもトップ3に食い込めるか食い込めないかという戦績だったり、浦和戦と東京NB戦でゴール決めることができていて、自分の中で手応えのあったシーズンだったので、そこで橋川さんが『もっと上を目指してみたら』って言ってくださいました。上を目指したいという思いを持たせてくれました」
――そうしたタイミングでの東京NBからのオファーだったと。
「本当にどうしようと考えました。橋川さんも、選手としては上を目指して欲しいし、新潟Lでも一緒にやりたいと思ってくださった中での決断だったので、結構重い決断ではありました。しかし1年で終わってしまったというのは、自分の中でも悔しい結果だったのかなと思います。どんな時もちゃんと向き合ってくれて、本当にありがたかったです」
――ちなみに、アカデミー出身選手として、浦和相手にゴール決めるというのはどんな気持ちでしたか?
「浦和のトップチームには行っていないですが、トップに上がれなかったという思いは、自分の中にずっとありました。そこの思いがゴール決めた時には、多分どこのチーム相手に決めた時よりも嬉しいっていうか、『やってやったぜ』みたいな気持ちはあるのかなと思います」

仙台の堅守を支えていく、頼もしいDFリーダー
――そして今年、マイナビ仙台レディースにやってきました。この仙台でどんな風にやっていきたいと考えていますか?
「失点を少なく、1試合でも多くクリーンシートの勝利を続けていきたい。勝利という結果は目指してやっていきたいですけど、それと同時に自分が“選手としてやっている意味”は何か。周りに『いなきゃ困る』って思ってもらえるような選手になっていけたらなと思っています」
――ここ2試合は本当に頼もしいプレーぶりだと思います。
「本当に昨年はかなり失点が多かったようなので、それでみんなも苦しみ、自信を失っていたということなんですけど、失点ってちょっとしたところで生まれると思います。そのちょっとしたところに、どれだけこだわれるかっていうところで、自分がチームに良い影響を与えたなと思います」
――西野朱音選手とのセンターバックのコンビネーションは上手くいっているのでは?
「朱音はできないことがあまりない選手なので、カバーしなきゃとかは全然思わないのです。何も気にすることがなく、自然とプレーできてるのですごくやりやすいなと思います」
――過去に他のチームでもつけていますが「背番号4番」はこだわりがあるのでしょうか?
「何もないです。新潟Lに行く時に『4が空いてるよ』って言われて、そこからずっとつけている感じです。毎回、行くチームで4が空いているんですよ。今年、それこそめっちゃ大きい番号とかにしようかなと思ったんですけど、なんか下手にここで変えるのも違うなと思って。こだわりがないことがこだわりです(笑)」
――サッカーをしている子どもたちに、何か言葉をかけるとしたら、どういうことを伝えたいですか?
「自分はずっと『絶対にサッカーをやりたい、続けるぞ』という思いでやってきていないんです。逆にいろんなところを見た中で、サッカーを選んでいる身。実は就職活動もちょっと経験しています。今でも『これから何をやろうかな』とか模索中なんですけど、だからこそその中でサッカーを選ぶっていうことに価値があるとも思うし、サッカーだけにならなくてもいいんじゃないかな。難しいですけどね」
――三浦選手ならではの面白い視点です。なかなかそういうことを言う人はいないです。
「本当に自分はずっとサッカーじゃない。サッカーを続けようかな、どうしようかな?っていうタイミングが何回もあったけれど、でも自分はサッカーを今もやっている。本当にやめようかなって思ったタイミングで、『お前がサッカーをやめても何も世界は変わらないよ』って言われたりして、『そうだよな』って思って。『それでも自分はサッカーをやっているんだよ』という思いを日々心に置きながらやっているっていう感じです。それが良いとか、悪いとかではなくて、そういう人もいるんだよということを知って欲しいですね」

文・写真=村林いづみ