【マイヒストリー】佐々木里緒選手

マイヒストリー

「勝つために、全員で同じ方向を向いていく。20歳は自分の価値を高めるシーズンに」 
17 DF 佐々木里緒選手

マイナビ仙台レディースの選手に、これまでの歩みを振り返ってもらう「マイヒストリー」。それぞれのサッカー人生に物語があり、かけがえのない記憶があります。今回は9月の「FIFA U-20女子ワールドカップ コロンビア2024」でも活躍した17DF佐々木里緒選手へ、子どもの頃のことやJFAアカデミー福島時代の話、今感じていることを伺いました。

「唐揚げの聖地・大分県中津市」で育った負けず嫌いな女の子

――サッカーを始めたきっかけはどのようなことでしたか?

「小学2年生の時で、兄の影響でした。その前から兄のサッカーについて行って、ボールは蹴っていたのですが、クラブに正式に入ったのが小学2年生です。大分県の中津市出身で、小学4年生までは地元のクラブに入っていましたが人数が少なかったですね。その後、少し範囲を広げた地域で、多く選手が集まったクラブに入って活動していました。女子は自分だけでした」

――その頃は、既になでしこジャパンはワールドカップで優勝していましたよね。

「はい。なでしこジャパンが優勝したのは、私が保育園の頃だったと思います。テレビで見ていた記憶があります」

――佐々木選手は小さい頃はどんな子どもだったのでしょうか?

「負けず嫌いで、活発な子どもでした。外で遊ぶのも好きでした」

――ちなみに、ご出身の大分県中津市はどんな街ですか?

「唐揚げが有名です。すごく田舎なんですが良いところです。唐揚げの聖地と言われていて『中津唐揚げ』は有名です。コンビニの数よりも、唐揚げの専門店の数の方が多いと聞いたことがあります。唐揚げは買うもの。中津の人たちは家では揚げないです」

――そういうこともあり、佐々木選手の好きな食べ物は「唐揚げ」なんですね。

「はい。唐揚げで育ってきました!」

仲間と切磋琢磨したJFAアカデミー福島時代。転機となった左SBへのコンバート

――その地元を出て、中学年代からJFAアカデミー福島に進みました。どのような経緯があったのでしょうか?

「1つ年上の友達がJFAアカデミー堺を受験したんです。サッカーを続ける上でそういう選択肢もあるということを母から聞いて、受けてみました。試しに受けてみたら、合格しました。始めは『受かったらいいな』、くらいの感じだったんです」

――そこから大分の親元を離れて、静岡での寮生活が始まったんですね。

「はい。全然大丈夫でした。あまりホームシックにもならなかったです。小学6年生なのでフワフワしていたというか、あまり何も考えていなかったと思います。しかし最初はご飯の量が多くて食べるのが大変でした。まだ小さかったので食べることに必死でした。練習もレベルが高くついて行くのがやっとでした。嫌だなぁと思うこともありながら、練習と食事をがんばっていました」

――同期は何人くらいいますか?

「初めは4人しかいなかったんです。他の代は7人くらいいるんですが。徐々に増えていって最終的には7人になりました。松窪真心(アメリカ、ノースカロライナ・カレッジ)も同期ですが、もうひとり『まなか』がいて、『Wまなか』のいる学年でした」

――同期の仲間との思い出は?

「みんな仲が良かったですね。みんなで頑張ろうと、切磋琢磨して、高め合える関係でした。すごく良い学年だったと思います」

――中学1年生から高校3年まで、大きな成長をする時期ですね。

「中学3年生から高校1年生の時が一番成長したと思います。その頃に『山さん』という監督(山口隆文さん)と出会い、サッカーの本質や面白さを教わりました。一つ一つの指導も丁寧でした。最初はボランチでプレーしていたのですが、左サイドバック(SB)をやらせてもらって、そこからポジションも定着しました。その時期が大きかったですね」

――今では当たり前のように左SBでプレーしています。

「実は最初からそこでプレーしていたわけではないです。中学3年生の時に高校生の公式戦に出させてもらいました。先輩が試合中にけがをして、途中から出ることになって、急に左SBに入りました。もう必死でした」

「左足のキック」と言えば佐々木里緒。その先にはいつも松窪真心がいた

――そういう状況で、初めてのポジションでもプレーできてしまうのがすごいことだと思います。佐々木選手と言えば「左足の正確なキック」が代名詞にもなっていますが、それはいつ頃から磨かれたものですか?

「左足はずっと自信がありました。SBになってから、前や逆サイドを見るようになって、武器になっていきました。逆サイドや遠いところを狙う練習も多くありました。周りのみんなも良いボールを蹴ることができていました。練習で磨くことができたと思います」

――佐々木選手のキックは飛距離がありますし、思い通りのところにボールが届きますね。コツはありますか?

「うーん。とにかく本数を蹴っていたので。全体練習だけではなく、自主練習でも蹴っていました。(松窪)真心がいたので、いつも真心めがけて蹴っていました」

――その松窪選手と一緒にWEリーグ、マイナビ仙台レディースに入団しました。入団前から練習参加していましたね。

「その頃は、長野風花さん(イングランド、リヴァプールFCウィメン)や宮澤ひなたさん(イングランド、マンチェスター・ユナイテッドWFC)もいました。いい選手が多くいるチームだなと思っていました。サッカーをする環境もいいなと思いました」

――松田岳夫監督(現、東京NB監督)の時でしたね。練習はいかがでしたか?

「ルールも多く、それを覚えるのに必死という感じでした。大変でした。頭がパンパンになるんです。でも慣れるといろいろなものが見えてくるという練習でした」

――その練習にもルーキーイヤーから食らいついて行きましたね。早くもプロ選手として3シーズン目ですね。

「勝つことができると嬉しいですが、勝てないことの方が多いですね。JFAアカデミーの頃は負けることがほぼない。負けたら恥ずかしいという環境で育ってきました。WEリーグではなかなか勝てなくて、勝つことの難しさを実感しています。『どれだけみんなが同じ方向を向いて行けるか』ということが大事だと個人的には思っています」

――負けるということは苦しいですよね。今季の開幕時にはU-20の代表活動に参加していて、仙台に戻ってからも、なかなか勝てない試合が続いています。試合後にはどのようなことを思っているのでしょうか?

「どうしたら勝てるのか、『ここはこうするべきだったな』と自分自身の反省も含めて、いろいろな想像が膨らんでいます。試合で起きたことについて考えますし、プレーしていた人、外から見ていた人に話を聞いたりもします。あとは単純に悔しくて、勝ちたいなと思っています」

U-20女子ワールドカップ準優勝。胸に残った悔しさはいつか必ず晴らす

――U-20女子日本代表でも主力として活躍しています。今回のワールドカップはいかがでしたか?

「すごく楽しかったです。決勝まで進み、世界のいろいろな景色を見ることができました。自分にとっても大きな経験となりました」

――コロンビアの高地で試合が行われていましたね。標高もかなり高く環境的には過酷だったとも聞いています。

「試合中に手をつきたくなるくらい苦しかったですが、そんなこともできない(笑)なんとか耐えながらやっていました。(準々決勝の)スペイン戦もそうでしたが、苦しい試合を勝てた時は本当に嬉し過ぎて泣けました。頑張ってきて良かったと思えました」

――印象に残っている試合はどことの対戦でしたか?

「勝てたスペイン戦と言いたいところですが、やはり北朝鮮との決勝です。自分の対応ミスでやられてしまって失点しました。相手に圧倒されて、自分の本来の自分のプレーが出せなかった。決勝の舞台で、多くの人が見てくれているのに、弱さが出たと思っています。せっかくここまで来たのに、自分を出せなかったという悔いが残っています」

――苦い思い出ですが、きっといつか取り返したいですね。今後、代表でもステップアップが期待されます。

「もちろんA代表へ入りたいという気持ちがない訳ではないですが、今以上にレベルの高い選手たちとの競争が待っていると思います。だからこそ、今の自分では入れるような場所ではない。もっと自分自身を磨いていかないと、自然と呼んでもらえるようなところではないと思います」

――WEリーグでのここから先の戦いに向けてはどのようなことを考えていますか?

「まずはチームとしては勝つことを優先していきたいです。しかし勝って満足したい訳ではなく、そこから先が大事だと思っています。個人としても一つ違いを出せるように。そこで自分自身の価値を高めたいなと思います」

――佐々木選手は9月に誕生日を迎え20歳になりました。

「20歳になったという実感は全然ないんです。理想の大人像は…、どんなことにも柔軟に対応できる人ですね。とか言っておいて、私は全然できないです(笑)チームの大人たちはみんな個性が強いですね。ベテラン選手はみんな大人です。でもいい意味で、大人、大人していない。みんな無邪気です(笑)」

――今サッカーに取り組んでいる子どもたちにはどんなことを伝えたいですか?

「伸び伸びと、楽しくサッカーをして欲しいです。パスやトラップなど、基礎を大事にして欲しいです。トラップが苦手だったらリフティングをたくさんやってみるとか。基礎ができていれば自ずとレベルが高いところでも通用するようになっていくと思います」

文・写真=村林いづみ
タイトルとURLをコピーしました