「マイナビ仙台レディースはもっと強くなる。仲間のために戦うことの大切さを伝えていく」
29 DF 坂井優紀選手
マイナビ仙台レディースの選手に、これまでの歩みを振り返ってもらう「マイヒストリー」。それぞれのサッカー人生に物語があり、かけがえのない記憶があります。第3回は29DF坂井優紀選手です。約10年ぶりの仙台復帰、今季AC長野パルセイロ・レディースから加入した経験豊かなCBに今の思いやこれまでの歩みを聞きました。
6年間は続けるという母との約束。サッカーが自分の道になった。
――改めまして、仙台へお帰りなさい。背番号は29番を選びましたね。
「ただいまです(笑)背番号の29番は大宮所属の時に、私が2番で、井上綾香(現RB大宮アルディージャWOMAN。仙台所属時から仲良し)が9番だったので。大宮を離れることになった時に、AC長野で背番号としてつけていました。チームは変わっても背番号だけでも隣同士にしようかなと思って(笑)」
――仙台在籍時から二人の仲の良さは際立っていました。離れて大丈夫でしたか?
「はい。イノ(井上選手の愛称)はずっと大宮なので大丈夫だと思いますが、私はチームが変わっているので、長野の最初の頃はよく電話をしていました」
――それでは坂井選手ご自身のお話を伺っていきますが、ご出身は千葉県ですね。
「千葉県千葉市です」
――サッカーを始めたのはいつでしたか?
「小学校1年生、6歳の時です。小学校の入学式の時に、サッカースクールが入り口でチラシ配りをしていました。それを見て母に「サッカーをしたい」って伝えました。母は驚いていましたね。まだどこか、サッカーは男の子のスポーツみたいな感じだったと思います。母としては、『途中で断念することは良くない』という考えで、6年間はサッカーをちゃんと続けるという約束でした。『男の子の中に女子1人でできる?』みたいな感じでしたがチームも歓迎してくれましたね」
――身近な誰かがサッカーをしていたということではなく、完全に配られたチラシがきっかけですか?
「はい。サッカーはほとんど見たこともなく、兄もいないし、周りでサッカーをやっている人もいなくて。それでもサッカーがしたくなったんですね。男の子の中に1人だけ女の子だから、という感覚はなくて、とにかくがむしゃらにやっていたって感じでした」
――小学生の途中で千葉県から兵庫県へ引っ越しましたね。
「5年生の夏に引っ越して、2学期から兵庫県の小学校でした。引っ越した先でもサッカーをしたかったんですけど、入ろうとしたチームでは女子はすぐに受け入れてもらえなかった。それでも5年生のコーチの方々が『やれるよ。だから入っておいで』と言てくれて続けられました。そのコーチの方々がいなかったら、たぶんサッカーを続けていなかったと思います」
――中学校時代はどういうチームでサッカーを続けていたのですか?
「女子のサッカーチーム、神戸FCというクラブチームです。見学に行って、同い年の子が大勢いました。『面白そう』と思ってその日にすぐ『お願いします』と。その時は田原のぞみ(マイナビ仙台レディースジュニアユースコーチ)と同じチームでした。小山季絵(元ベガルタ仙台レディース)も一緒だったんですよ。でもその時はまだ慣れることができなかったから『田原さん、小山さん』という感じでしたけど。後に仙台でチームメートになる2人にはそこで出会ってます。中学卒業時に私は、啓明女学院高校(現・啓明学院高等学校)へ、季絵とのぞみはライバル校の日ノ本学園高校へ。大会の決勝戦でぶつかる時に2人に会えるみたいな感じでした」
――啓明女学院高校での3年間はいかがでした?
「高校3年間は、2年生3年生の先輩にサッカー初心者の方々が多かったので、神戸FCから多く入学した私たち1年生が中心となってやっていたんです。でも高校3年間は上下関係が厳しかったです。サッカー自体は、よく決勝戦まで行けました。でもいつも日ノ本には負けてしまうというのが悔しかったです。バレーボールを経験していた母に『走り込みが足りない。もう少し走れるようにならないと』と言われ、家へ帰ったら犬の散歩がてら、ちょっと速いペースで長めに走るということを続けていたら、体力がついてきたことを感じた時期がありました。それが自信になったのか、試合終盤になっても走りきれるようなことが増え、日ノ本に勝った時があったんです。がんばってみて良かったという気持ちは湧いたりしました。でもやっぱりきつかったですけどね」
――この頃、ポジションはDFではなくFWでしたね。
「はい。DFはかじったこともなかったです。神戸FCに入って、小学校の後半戦から中学はFW、高校でもFW。ずっとトップにいました。その時も足はそれなりの速さがあったから、ボールは裏に出されて、結構オフサイドに引っかかっていました(笑)」

導いてくれた先輩たちとの出会い。代表クラスの選手たちに鍛え上げられた日々。
――高校を卒業して、なでしこリーグのTASAKIペルーレFCへ入団しました。チームに所属してサッカーを続けていくというイメージはずっと持っていましたか?
「小学校の時は『6年間続けなさい』と母に言われて、その約束を守るために妥協したくないという理由でやっていましたが、いつの間にか『進んできた道がずっとサッカーだった』という感じでした。大学に行って何か勉強するとか、資格を取得するとか、そういうイメージも全然なくて。でも大学の方からいくつかオファーも頂きました。大学に行ってからチームに入るのが良いのか、すぐにTASAKIでやった方が良いのか。4年間どこでプレーするかでレベルが全く違うと思いました。もうチームに飛び込んじゃえ!という気持ちでしたね」
――勇気を持って決断したんですね。
「TASAKIへは、澤田由加(2021年引退)と一緒に行ったんですけど、その時の同期が齋田由貴(元ベガルタ仙台レディース、元フットサル女子日本代表)。ゴマ(齋田の愛称)です。2個上のお姉ちゃん的な存在でした」
――ご縁ですよね。2シーズンを過ごし2008年にTASAKIは惜しまれながら休部となりました。そのタイミングでINAC神戸レオネッサへ移籍します。
「INACは神戸にあるTASAKIのライバルチーム。そこから声がかかりました。どうしようと悩みました。他のチームからも話があって、当時19歳くらいだったので、まだ県外に出るという勇気が出なかった。その時に、甲斐潤子さん(2016年I神戸で引退)が『私もI神戸に行くよ。もう1回一緒にやろう』と言ってくれました。TASAKIの会社でも同じ課だったんですよ。サッカーの先輩で、仕事中も喋れる、隣にいてくれる先輩でした。私が悩んでいるような顔していたのか、『大丈夫だよ』と声かけてくれて、『悩んでいるなら一緒に行こう』と」
――それから2009年から3年間、I神戸で過ごしましたね。
「1年目は原歩さん、海堀あゆみさんもいました。3年目の2011年にはベレーザ組の澤穂希さん、大野忍さん、近賀ゆかりさん、南千明さんの4人が来ました。すごいメンバーでしたよ。なほ(川澄奈穂美選手)もいましたしね」
――練習の雰囲気はいかがでしたか?
「やっぱりベレーサ組が来た時にやっぱりレベルが1段変わってきました。その時についていけなくなりそうな自分もいるし、いろんなものを吸収できる時間でもある。すごく刺激的な時間だったと感じています。ボール回しとか、もうパニックです(笑)パスミスばかり。もうそれだけレベルの差があったんです。悔しいですけど」
――2011年でI神戸での契約が終わり、翌年2012年はベガルタ仙台レディース発足のタイミングでもありました。
「どうしようと思っていた時に、母が『ベガルタのセレクションがあるよ』と。東日本大震災が発生した後、『休部になっていたマリーゼの移管先が決まり、セレクションがあります』というお知らせでした。行ってみたらと勧められて、監督に許可をもらって参加しました。毎年年末にTASAKIの仲間で集まる『ペルーレ会』という食事会があるんですが そこにゴマ(齋田由貴)も来ていて、『私もベガルタのセレクションを受けるよ』と言われました。結局、セレクションでは私とゴマの2人だけ合格しました」

セレクションでベガルタ仙台レディースの一員に。最高の2012年のメンバー
――マリーゼ組とセレクション合格の2人でベガルタ仙台レディースの1年目が始まりました。チームはどのような雰囲気でしたか?
「他のみんなはずっと一緒にマリーゼでやっていました。バラバラになっていたその仲間たちが再び集まったという状態。すごく緊張したんですよ。もう出来上がっている、メンバーが固まってる中にポンと入るって、どんな感じなんだろうかと。不安しかなかったんですけど、でもゴマがいるから平気という気持ちもありました。最初のセレクションの時にはGKの天野実咲さんが送り迎えをしてくれたり、練習が始まる時もみんなが『ウェルカム』な温かい雰囲気でした。その前にI神戸で刺激を受け過ぎて自信を失っていたところに、温かさを感じたので『この人たちと頑張りたい』という気持ちが湧きました。自分も1年目っていう気持ちだし、もう溶け込みたいという気持ちでした。同い年も大勢いるし、ゴマの存在にも助けられたし、この人たちとがんばり続けたいと言える最高のメンバーでした。いつか私が引退する時は、その仲間とドリームチームを作って引退試合をやりたい。サッカー人生を振り返っても、この2012年は『ここが一番です』と言えるメンバーでした」
――その2012年の初戦で、最初のゴールを決めたのが坂井選手でしたね。
「上辻祐実さんのコーナーキックに最後の最後で決めました。もう土壇場、最後の最後です。それまで無人のゴールなのに、みなちゃん(伊藤美菜子選手)が外しちゃったりとか、何度となくチャンスがあったのにゴールが決まらなくて焦っていました」
――その開幕戦は引き分けでしたが、なでしこリーグ2部から始まったシーズンは無敗でした。坂井選手のヘディングのゴールはいつも劇的だった印象です。
「特に1年目はそういう試合が多かったですね」
――その後9年間所属し、新しい仲間を迎えたり、仲間を見送ったりしていましたが、ベガルタ仙台レディース、マイナビベガルタ仙台レディースはどんなチームでしたか?
「チームのために戦える選手たちが多かったなと感じています。自分だけが試合に出ているから良いということはなく、出られない時も自主練をがんばるとか、出てる人たちのためにサポートも惜しまない。チームのため、みんなのためという気持ちを持って戦える選手たちが揃っていたなと感じます。サブだから先発の人たちのために良いサポートする。その後は自分たちがいい準備をするとか。そういうことが普通にできていたチームでした」
――どうしてそういう仲間が揃っていたのでしょうか?
「多分、マリーゼの人たちがそうだったんじゃないかなって思います。こづさん(初代キャプテンの下小鶴綾さん)とか、中村真美さん、山本りささんもそういう人でした。そして田原のぞみもシーズン初めはけがをしていました。みんないろんな経験をしてるからこそ、この人たちのためにがんばれるとか。井手上麻子さんも高橋奈々も試合には全然出られないけど、絶対に自主練は欠かさなかった。いつも紅白戦楽しかったです。バチバチやるところはやるけれど、終わったらちゃんと話す。試合に出られなくてもでもこの人たちのためにがんばりたいという思いが常にありました」
――日中はそれぞれ違うところで働いてるいるけれど、夕方に集まって練習していました。職場の方々も「我が子」の応援にスタジアムに駆け付けてくれました。
「自分の勤務先のパスコの方々も来てくれていました。チームメートの会社の方々に一緒にご飯に連れて行ってもらったり、交流があって良かったなって思います。実家とは別に、仙台にも家族がいるみたいな感じ。『こっちにもお父さんがいる、お母さんがいる』という感じです。仙台に帰ってきたことを喜んでくれた方もいました。会社に勤めたことでつながったご縁が自分の中では大きな財産だったというのは、仙台に帰ってきて、より身に染みました。自分にはもう1つの故郷があると思えました」
――それだけの人間関係を構築できた仙台を2020年限りで離れることになりました。
「悔しかったです。多分仙台で引退すると自分も思ってたから、あの9年間の後は本当にどうしようかと」
WEリーグ発足。プロの厳しさを感じながら、大宮、長野、そして再び仙台へ。
――WEリーグが発足し、大宮アルディージャVENTUS(現RB大宮アルディージャWOMEN)へ移籍しました。
「大宮でプレーをして、サポーターもすごく一生懸命応援してくれました。プロリーグの中で、私は会社に所属してアマチュア契約でしたが、勤務先の方々も『プロとしてやっていいよ』と、仕事内容を調整してサッカーに専念させてくれました。そういう風にしてくださることもありがたいことだし、そこでご縁もつながりました。しかしその中で、試合ではなかなか結果が残せなかった。もちろんプロリーグだから結果が求められるのは当然だと思います」
――2024-25シーズンはAC長野パルセイロ・レディースへ。
「長野はとても良い街だし、選手たちも可愛いって思える仲間でした。素朴な感じの後輩が多かったです。今回AC長野から一緒に仙台へ来た伊藤有里彩や安倍乃花を見てもわかりますよね。素直な子たちです。実は長野でみんなと仲良くなるまで結構時間がかかってしまい、半年ぐらい無駄にしてしまったのですが、後半の半年間が濃厚でした。私の経験は全て伝えたいと思ったし、この子たちと一緒に戦って勝ちたい。雰囲気も良くしていきたいという気持ち。『一致団結感』があったので、長野を離れる時も寂しかったです」
――今シーズン仙台へ戻ってきて、日々どのようなことを感じていますか?
「自分が知っていた当時の仙台とは、違ったチームでした。時が経てばメンバーも変わるし、いろいろな変化はあると思うんですけど……。マイナビベガルタからマイナビ仙台レディースになった段階でも変わっていると思います。若い、めちゃめちゃ若い。良い選手が揃っているので、もっと良い方向へ進んでいけると思います。厳しく言えば、ここで満足をしていたら、もう一段階先には行けない。『これでは勝ちにつながらないよ』と思うことがたくさんあります。本当に若いなっていうことを感じました。でも1人1人のポテンシャル、上手さはあるのでもっと強くなれるんじゃないかなと感じてます。練習でもみんなこんなに上手いのに、どうして去年は勝てなかったのかな、と。みんなの意識やチーム力を高められたら去年よりも良い順位にいけると思います」
――チーム最年長選手として、いろいろなことを見ていかなければいけないかもしれませんが、坂井選手自身はどんなシーズンにしたいですか?
「年齢的にはだいぶハンデがあると思います。でも、今まで経験してきたことや、負けたくないという気持ちは全面的に表したい。この年でも『若い子たちに負けないんだ』というところを見せつけたいです。今長く試合に出られて15分ぐらいですが、その15分の中でも結果を出したいという気持ちはあります」
――希望の星ですよ。
「本当ですか(笑)」
――サッカーしている子どもたちにはどんなことを伝えたいですか?
「AC長野の時にも『坂井選手がサッカーしているのを見てサッカースクールに入りました』と言ってもらえることが多かったです。でも『自分は下手くそだから周りの子たちに迷惑をかけちゃう』みたいなことを言っている子がいました。そんなことは関係なく、まず自分が楽しんで欲しいという気持ちがあります。『周りが上手いから自分なんて』という子もいるかもしれないけれど、サッカー以外でもそうですがチャレンジしたことを楽しんでほしい。楽しむことを忘れちゃうと、結局何も楽しくないし成長できない。もし上手くいかなかったら、また違うことすればいい。
自分もこの年だからチャレンジすることにちょっと怯えてしまったりもするけれど、でもやらなきゃ始まらないし、やった自分を褒めてあげないと何もできないなと思います。小さな子どもたちがプロに向けてがんばることも大事ですが、楽しんでなきゃやっぱり何も続かない。『点を決めて楽しい』『ボールを蹴ることが楽しい』『選手を一人抜いたことが楽しい』『シュートを打つことが楽しい』。何に対しても楽しんでほしいなって思います。別にそれがサッカーだけじゃない。いろいろなことにチャレンジして楽しんで欲しいです」

文・写真=村林いづみ