【マイヒストリー】原衣吹選手

マイヒストリー

「上手くいかなくても、続けていればきっとゴールは見えてくる。」 
6 MF 原 衣吹選手

マイナビ仙台レディースの選手に、これまでの歩みを振り返ってもらう「マイヒストリー」。それぞれのサッカー人生に物語があり、かけがえのない記憶があります。第2回は今季の開幕戦でけがからの復帰を果たしたMF原衣吹選手です。今、仲間とサッカーする喜びを感じている彼女のヒストリーを伺いました。

復活の公式戦は、主戦場のボランチではなく右サイドバック

――今季は開幕戦から先発出場しています。公式戦は本当に久しぶりでしたね。

「去年の東京NB戦以来、10か月ぶりです。WEリーグカップ期間に全体練習に合流できました。カップ戦から1か月ほど空きましたが、いつも通りボランチで練習をしていました。その中でチームでもけが人が増えてきて、右サイドバックがいないという状況になりました。日テレ・ベレーザに所属していた時に経験していたので、『できますよ!』という話をしたら、そこでプレーすることに。試合に出ることになったら、やれることをやろうという気持ちでした。」

――仙台で右サイドバックは新鮮でした。自然にプレーできていたと思いますが、手応えはいかがですか?

「守備では、みんなについて行こうと思いました。頭で跳ね返したり、愛ちゃん(國武愛美選手)にカバーしてもらうところもたくさんありました。攻撃は、開幕戦に関しては主に左で作っていた部分もあったので、それほどビルドアップに関われる機会もなかったですね。もう少し攻撃に関わりたかったなという感じです。」

――確かに左からの攻撃が多かったですね。

「今年のチームのストロングとして、(高平)美憂の裏を狙うパスや(遠藤)ゆめのドリブルがあります。カップ戦からそこを生かそうとしていたので、右サイドはバランスを取りながらチャンスがあれば攻撃しようという話は、同じ右サイドの(佐々木)美和さんとしていました。右サイドバックの役割として、上下動に限らず、中に入っていってボランチの役割も果たすというところがあったので、1週間かけてよく話し合いながら試合に入っていきました。」

お風呂の鏡が戦術ボード。反骨心があったから仲間と団結できた。

――原選手がサッカーを始めたきっかけはどのようなことでしたか?

「4歳の時です。3歳上の兄がサッカーをしていたので、ついて行って自然に始めていました。小さい頃からお兄ちゃんの真似をするのが大好きでした。真似をしていたら一緒のチームに入っていました。スクールに通い始めたのが4歳、スポーツ少年団に入ったのが小学1年生の時です。」

写真=本人提供

――その頃は、どんなことを考えながらサッカーをしていましたか?

「元々、父も母もサッカーをよく知っている人でした。周りから兄と比べられてしまうこともあったので、とにかく負けたくない。男の子には絶対負けないと思って頑張っていたと思います。楽しかったこともありましたが、怒られて泣いていたことも結構ありましたね。父がスポ少で“お父さんコーチ”をしていました。試合が終わった後に、一緒にお風呂に入って、お風呂の鏡に戦術を書いて話し合うこともありました。」

――お風呂でフィードバック……。帰ってからもサッカーは続くんですね。

「父は大学までサッカーをしていて、スポーツ少年団のコーチも頑張っていました。怖かったですよ。母には何か言われたら反抗していました。『じゃあ、それできるの?』って。」

写真=本人提供

日テレ・メニーナの狭き門。大きかった6年間の経験と積み重ね。

――小さい頃からしっかりと鍛えられましたね。日テレ・メニーナに入ったのは中学生の時ですね。

「小学校6年生でセレクションを受けて、中学1年生から入りました。私たちの代は、100人以上がセレクションを受け、合格者は5人でした。メニーナでは寺谷(真弓)監督で、厳しいということも知っていました。でもどうしてもメニーナでプレーしたいということを、小学校5年生頃から考えていました。」

――今プロとしてプレーしていることもすごいと思いますが、その頃から熾烈な競争をしてきたんですね。メニーナでの日々はどのように過ごしていましたか?

「寺谷監督は厳しいし、褒められることはほとんどありません。しかし、言ってもらったことは全て的を射ているんです。当時は悔しかったです。『また怒られた』とへこんで泣くこともありました。しかし、大人になってから振り返ると、あの期間は自分にとって、一番大きな経験ができた6年間でした。人としても成長できた期間でした。」

――厳しく言われたことに対して、悔しさというか、反骨心のようなものを持っていたんですね。

「小学校の時も父に言われて悔しさを持っていて、メニーナでも寺さん(寺谷監督)に言われた悔しかった。周りも同じ気持ちだったので、『じゃあ、団結してやってやろう』という感じだったんです。そういう周りの影響も大きかったですね。」

――仲間の存在は大切ですね。メニーナのメンバーは一緒にトップに上がれたのですか?

「自分の世代は高校に上がる時点で、私だけになってしまいました。高校生になる時に面談をして、高校でプレーした方が輝けるのか、メニーナで続けた方が伸びるのかということを寺さんと話し合いました。ベレーザに上がった時にも同期はいなくて、私一人。厳しいですよ。強い世代は何人もトップに上がりますが、そうでなければ学年に一人いるか、いないかです。」

――原選手は高校でなくメニーナでサッカーを続け、高校卒業後もベレーザでプレーしました。

「高校に上がる時も大学に入る時も、前十字靭帯のけがをしていました。大学に上がる時はけがをしたばかりだったんです。寺さんに、『ベレーザで試合に出る出ないということは考えず、1年間はリハビリに専念していいから』と言ってもらいました。その間に回復してコンディションを上げ、将来的にどうするか考えさせてもらいました。大学はサッカーが強い早稲田大学にしたのですが、結局大学サッカーではなく、ベレーザでプレーする道を選びました。厳しいですが試合に出られても出られなくても、ベレーザで得るものの方が大きいだろうなということは考えていました。」

ベレーザで叩き込まれた哲学。脈打つのは緑の心臓。

――伝統のある日テレ・ベレーザ。下部組織から独自の哲学を感じます。

「みんなサッカーが上手いし、サッカーが好きなだけではなく、とにかく気持ちが強いんです。負けたくないという気持ちです。相手に負けたくないという思いも強いですし、みんな試合に出たいという気持ちです。中学1年生から高校3年生まで一緒に練習し、上の年代の人を見て育つんです。ベレーザの選手たちを見て育つので、そこで『負けちゃいけない』というプライドを植えつけられていくんです。“緑の心臓”と言われますが、そういうところはあったんじゃないかなと思います。」

――東京ヴェルディの選手たちも「緑の血が流れる」とか言いますしね。

「よく言われますけど、それはない(笑)血は赤いです。」

――原選手が見つめ続けたすごい先輩は誰ですか?

「阪口夢穂さんです。プレーを見ても、一人だけいる空間が違うんじゃないかというくらい余裕があります。ピッチ外でもこだわっていること、やるべきことはちゃんとやっています。周りにも気を遣ってくれますし、夢穂さんに声をかけてもらってやる気が出ることがたくさんありました。サッカーの面でも、私生活でも憧れの先輩です。」

――阪口さんは最近「行政書士」の資格を取ったことでも話題になりました。

「本当にすご過ぎますよ。天才だと思います。その上、コツコツ努力を続けられる方。真似しなければいけないですが、そこまではできないなと思います。」

――ベレーザのサッカーは見ていてワクワクしますよね。プレーしている側としてはどうでしたか?

「サッカーではシュートを決めることも嬉しいですが、相手の逆を取るということも楽しい。1対1で相手の逆を取ったり、1対2の守備でボールを奪ったり。不利な局面で勝ったりするのが楽しかったです。今もそうですね。無理かもというところで勝ち切るのが楽しいです。」

――ベレーザのプライドという話もありましたが、数々のタイトルを獲っているチームで、一人一人の勝利への執念は、他とは違うものですか?

「勝たなきゃいけないということは常に感じていました。試合に出ていても、出ていなくてもチームのために何かしようとか。練習でも言い合います。何でしょうね……。試合で先制されても、負ける気がしない。負けそうと思ったことがなくて、どうにかなるでしょうということをプレーしていても、外から見ていても感じていました。」

WEリーグ開幕。仙台への移籍という大きなターニングポイント。

――2021年にWEリーグが開幕。その年にマイナビ仙台レディースへ移籍を決断しました。

「移籍する前の年に半月板のオペをし、リハビリをしていました。大学4年生で周りも就職活動をしていました。けがをした時に、サッカーをやめるという選択肢もありました。ベレーザでサッカーを続ける、他のチームでサッカーをする、そして企業に就職して仕事をするという選択肢です。実は就職活動をして、内定も頂いていたんです。その状況でマイナビから声がかかりました。ベレーザでは試合に出られていなかったので、このまま続けていくのはどうなのかな?という思いもありました。仙台に行って試合に出られるかはわからないですが、せっかく呼んでもらえるんだから新しい環境でサッカーをしてみようと思いました。」

――周りにも驚かれたんじゃないですか?

「就職活動をしていることはみんな知っていました。ベレーザの中で思うようにできていないということも知っていたので、そこまで驚かれなかったんじゃないかな。(宮澤)ひなたの移籍の方が驚きは大きかったと思います。私はついてきただけ!みたいな(笑)」

けがをしたから得られた感情。もっとサッカーが好きになった。

――ここまでの歩みを振り返っても、「けが」という言葉が多く出てきました。仙台でもリハビリ期間は長くありましたし、原選手は本当にけがと闘ってきたんだなと思います。

「そう言われると、めっちゃ闘ってきたとは思います。でも、そんなにすごく辛かったかというと……。『何回も辛いけがから立ち上がってきました』という選手もいるとは思うんですが、『すごく辛くて、サッカーをやめよう』という感じではなかったんですよ。辛い時はありましたけど、『どうにかなるでしょ』という考え方です。」

――あまり悲観的にはならなかったのですか?

「はい。けがは辛いし、リハビリしている時もサッカーしたいなと思う瞬間はたくさんありました。でもリハビリの中でできることは増えていきましたし、リハビリで出会えた人も大勢いました。そんな中で得られた感情があって、もっとサッカーを好きになった。サッカーをやりたいなという気持ちが本当に大きくなりました。サッカーをしていても上手くいかなくて、嫌いになってしまうこともあるかもしれません。でも私はサッカーを嫌いになったことがない。それはきっと、けがをしていたからです。サッカーをやりたいという気持ちの方が大きいから、どんどん好きになっていく感じです。」

――できなかった時期が長かったからこそですね。

「はい。メンバーに入れず試合に出られないということで嫌になることもあるかもしれないけれど、でもけがをしているよりはマシ。サッカーができているだけ、幸せでしょと思います。マイナビのサッカーもベレーザのサッカーもそうですが、見ていたらやりたくなる。いいなぁと思って、とにかく試合を見ていました。けがをしていなかったら私はこういうプレーができるかな、とか。考えるだけでも楽しかったです。サッカーしかやってこなかったですからね。けがをして辛いという時期はそんなになかったかもしれません。」

――今、公式戦にも復帰し思い切りサッカーをしている日々ですが、どんなことが楽しいですか?

「練習ができるだけで楽しい。試合に出られたら、もっと楽しいです。(開幕戦は)復帰戦という感じもなく、さらっと始まったんですけどね(笑)何が楽しいかなぁ……。ボール回しが一番楽しいです(笑)できないことが少しずつできるようになっていくのが楽しいです。みんなとサッカーの話をしているのも楽しい。復帰したから今が特別楽しい!という訳でもないんです。リハビリ中も、面白い人は大勢いましたしね。上手くいかないことも多いけど、ずーーーっと、楽しくやっています」

――その楽しさは表情に出ていますよ。ピッチにいる原選手はいつも笑っています。

「小学校の時は将来の夢で『サッカー選手』と書いていました。中学校に入り、レベルが高いところで練習して、ベレーザの選手を見て、現実を見て……。難しいかも、と何度も思いました。トップレベルでできないなら就職しようって思っていました。大人になるにつれて現実は見えてくる。無理かなと思うこともありました。今だって思っています。『これで、プロと言って大丈夫なのかな?』とか。でもずっとサッカーは好きなので、サッカーが仕事にできていることはありがたいことです。夢が叶ったといったら、その通りだなって思います。」

――将来、プロサッカー選手を目指す子どもたちにはどんな声をかけたいですか?

「けがをした時に、信頼している方から言ってもらった言葉ですが、『続けていないと夢は叶わないし、目標は達成できない。やめるのは簡単だけど続けられるし、やらせてもらえる環境があるなら続けたら』と。その言葉はとても大きかったです。今、サッカー選手になりたいと思っている子たちも同じなのかなって。今けがをしていたり、上手くいかないことがあって『無理かな』って思っても、続けていないとゴールにはたどり着けない。上手くいかなくても続けることはできる。それが一番大切かなって思います。」

文・写真=村林いづみ
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