「大勢の人に支えられて、地元仙台でプロサッカー選手に。
どんな時も感謝を忘れず、成長し続ける」
37 MF 石坂咲樹選手
マイナビ仙台レディースの選手に、これまでの歩みを振り返ってもらう「マイヒストリー」。それぞれのサッカー人生に物語があり、かけがえのない記憶があります。地元仙台市出身の石坂咲樹選手にアカデミー時代の思い出やこれまでの歩みについて伺っています。
地元のスポ少からトレセンへ。できることが増える喜びを感じて。
――石坂選手は宮城県仙台市出身。小さい頃はどんなお子さんでしたか?
「泣き虫でした。学校に行くにも、親と離れたくなくて泣いていました。静かだったかなぁ。サッカーをやるような感じの子ではなかったです。3歳年上の兄がいて、仲良しだったんですが、兄の影響で小学校3年生からサッカーを始めて、一緒にサッカーをしていました。そしてサッカーも好きになりました」
――寺岡GALLANTSというチームですね。
「地元のスポーツ少年団です。自分たちの代は県大会に出るようなレベルではなかったです。そんなに強くはなかったですが、チームが泉トレセンのセレクションに行かせてくれました。そこから宮城県のトレセンや東北トレセンにも行けるようになりました。そういうことがマイナビベガルタ仙台レディースのジュニアユースへの道に繋がったと思います。積極的に女子チームの活動にも行かせてくれたので、ありがたかったなと思います」
――その頃はサッカーをしていて、どういうことが楽しかったですか?
「試合で点を取ることもそうですが、私の場合はリフティングがたくさんできるようになるのが嬉しくかったです。できることが増えるということが嬉しいし、楽しさを感じていたところです」
――そして当時のマイナビベガルタ仙台レディースジュニアユースに進みました。
「セレクションを受けました。その前から東北トレセンに行っていて、セレクションを受けた人もほとんど知り合いみたいな感じでした。半分はみんなが受けるから受けてみようというところもありました。サッカーが好きで続けたい。そして女子チームで、せっかく宮城でやるなら強いところでやりたいという気持ちでした」

マイナビ仙台レディース下部組織での日々。育んでくれた指導者たちとの出会い。
――当時のジュニアユースはどのような環境での練習でしたか?
「練習は火曜、金曜、土曜の練習でした。グラウンドもフットサルコート2面を使っていました。バッティングセンターに人工芝のピッチがあってそこで練習していました。今は白百合学園の練習場をフルピッチで使えますよね。今では全国大会に行ったり、東北では絶対に勝つという感じですが、最初はなかなか勝てなくて……。それでも3年間通して成長できたかなと思います」
――高校年代ではマイナビ仙台レディースユースの1期生。個性の強い仲間たちと切磋琢磨しました。
「トップに昇格し、今期限付き移籍で湯郷に行っている猪瀨結子、早稲田大学へ行った宗形みなみとか。大学にいったり、海外で続けていたり。それぞれみんなサッカー続けている代なんですよね」
――当時のユース監督、小川翔平さんと強くなっていきましたね。
「私は翔平さんに中学時代にコーチをしてもらって、中3で監督になって、高校3年間もお世話になって良かったと思います。自分のサッカー人生の中で、本当に感謝するすべき存在だなと思っています」
――愛情深くユースの選手たちを育てる存在ですね。小川さんの下でのユースでの3年間はどのような期間でしたか?
「私たちは1期生で、1、2年目は全国で試合をすると浦和レッズのユース、(日テレ・東京ヴェルディ)メニーナは本当に上手くて、全く相手にならなかったです。それでもチームとしても個人としても成長するため続けてきました。そして3年目で結果となって出せたことが嬉しかったです」
――3年生の時にマイナビ仙台レディースユースは日本クラブユース女子サッカー大会で決勝の舞台に立ちました。
「みんな負ける気がしなかったです。それで決勝まで行くことができました。全て簡単な試合じゃなかったですけど、すごく自信を持って挑めた大会。優勝できなかったですけど、ひとつ結果を残せたので、自信にもなったと思います。私はその時、あまり調子が良かったわけではなかったですけど、今トップのコーチでやってる(有町)紗央里さんがコーチでいてくれました。紗央里さんがサッカーを教えてくれて、選手に寄り添って指導してくれました。大会期間中もですけど、特に高校3年生になってからは、たくさんプレーの面でも話して、自分と向き合ってくれたと思います」
――今、トップでも指導を受けられるのは心強いですね。
「そうですね。本当にそう感じています」

武蔵丘短期大学で身につけた「栄養の知識」と「人とのつながりの大切さ」
――高校を卒業して武蔵丘短期大学へと進学します。サッカーを続けていきましたが、そこではどのような選択があったのですか?
「まずトップに上がれなかったということで、その時に自分自身もどうしようかなと考えていました。すぐに夏のクラブユース選手権があって、そこで『やっぱりサッカーは辞められないな』という気持ちが湧いてきました。その中で、私自身、栄養を学びたいという思いも持っていました。いろいろな大学から声をかけていただいた中で、武蔵丘短期大学の監督も声をかけて頂きました。練習参加をしたその日に『ここにする』と決めました。練習参加も武蔵丘短期大学しかしなかったです。プロの世界に早く行きたかったので、2年間というのも良かったです。栄養も学ぶことができ、サッカーもできるという環境でした」
――資格もたくさん取得しましたね。
「栄養士と健康管理士一般指導員、健康管理能力検定1級も持っています」
――栄養に関する知識を身につけたかったのはどのような理由でしたか?
「サッカーをしている自分自身の栄養のこともそうですし、そこで学んだことは将来に生きると思ったので学びました。資格を取りたいという気持ちでした」
――大学に行ったからこそできた経験ですね。
「勉強もそうですし、始めて部活を経験できました。チームメートは学校から放課後までずっと一緒。そこでの難しさもありましたし、一緒に過ごせるからこそのチームワークの良さも感じました。(関東女子サッカーリーグ)2部だったので、すごくレベルが高かったとは言えないですが、自分たちの代は良い選手が揃っていました。大学選抜にも1部の選手が多い中で、2部から呼んで頂いて、そこからいろんな経験をさせてもらいました。大学では人とのつながりが広がりました。感謝したいという存在がたくさんいます」
――学生時代から既に特別指定としてマイナビ仙台レディースの試合にも出ていました。学業との両立もなかなか大変だったのでは?
「先生たちが理解を示し、協力してくれました。栄養の授業は実習が多いのでそういう時は大学に戻っていましたが、他の授業はオンラインで対応してもらいました。そういった先生方のサポートにも恵まれました」

地元でプロサッカー選手へ。どんな時も感謝も気持ちは忘れない。
――いろいろな経験をして、2023-24シーズンの後期からチームへ入りました。
「地元のクラブでプロサッカー選手としてスタートできたということは、簡単なことではないですし、ありがたいことだなと思います。このスタートを切ることができたのも、タイミングや運もありました。たくさんの方が支えてくれたり、関わってくれたおかげで今があると思っています、感謝の気持ちは忘れずに持っていたいです」
――今後の目標を聞かせてください。
「試合に勝つということも大事ですし、自分の成長するためにやるべきことを考えて進んでいくしかないと思っています。もっと活躍できるようにがんばっていきたいです」
――サッカーをしている子どもたちへアドバイスを頂けますか?
「どんなことでも、やるかやらないかで迷ったら、挑戦する方を選んだ方が良いと思います。自分で選べば上手くいかなかったとしても、納得できる。自分で決めるということが大事かなと思います。そしてサッカーを好きという気持ちは、どんなに辛いことがあったとしても持ち続けて欲しいです。自分1人ではサッカーはできないです。親や周りの方々の支えは、自分がサッカーをがんばるということ以上に大事だと、私自身も感じてきました。人とのつながりや感謝は大事にして欲しいですね」

文・写真=村林いづみ