「たくさんの壁を乗り越えサッカーを続けてきた。流した涙には意味がある」
8 MF 大西若菜選手
マイナビ仙台レディースの選手に、これまでの歩みを振り返ってもらう「マイヒストリー」。それぞれのサッカー人生に物語があり、かけがえのない記憶があります。第10回はドリブルでスタジアムのサポーターを大いに沸かせるMF大西若菜選手です。これまでの歩みと仙台で過ごす日々について伺いました。
姉弟でボールを蹴っていた幼少期。父はサッカーの強豪校出身
――大西選手は東京都ご出身ですね。
「はい。東京の三鷹です」
――小さい頃はどんなお子さんでしたか?
「明るくて、外で遊ぶのが好きでした。年子の弟がいるんですけど、よく弟と一緒にボールを蹴っていました。実は父も高校までサッカーをやっていたんです。山口県の高川学園高等学校です」

――強豪校ですよね。大西選手がサッカーを始めたのは何歳の時ですか?
「小学校1年生です。6歳の秋に始めました。保育園の頃はスイミングを習っていました。小学校へ上がるタイミングで、サッカーかダンス、どちらを習うか迷っていたんです。小学校でスポーツ少年団の『体験のお知らせ』が配られていて、それを父に話したら『行ってみないか』という感じで、とりあえず行ったみたことがきっかけでした」
――そのチームが大沢FCですね。どんなチームだったのですか?
「基本的に男の子のチーム。女の子は少ないんですけど、先輩もとても優しくしてくれて、すごく熱いチームでした。監督がすごく熱い方でしたね」
――そこでサッカーの楽しさを感じたのですね。中学生年代からは浦和レッズレディースジュニアユースに進みました。小学校の頃から、かなり実力を発揮していたのでは?
「東京トレセンには選ばれていました。男子の中で女子は4人だけ。特別に男子の中でやらせてもらっていました。関東トレセンも行っていたんですが、ナショナルトレセンには選ばれませんでした。そういう時に、女子のチームのセレクションを受けて、第一希望の浦和に合格しました」

浦和の下部組織で成長。中学時代の大きな壁
――浦和が第一希望だったのですね。何か理由はあったんですか?
「浦和の試合を見に行ったことはなかったんです。味の素スタジアムが近くて、元々FC東京のファンでした。セレクションを受けることになって、公式HPなどで情報を調べていくうちに、エンブレムが格好いいなと思いました。セレクションを受ける前に練習会みたいなものがあったんです。参加したらとても楽しくて、環境も良かった。『練習着もすごくいいな。ここ行きたいな』と思いました。練習会でも声をかけて頂きました」
――優れた選手も多く集まった環境だったと思いますが、ジュニアユース時代の3年間はどんな時間でしたか?
「正直言うと、辛かった時期の方が多かったですね。小学校の頃は戦術も全くやっていなかった。とにかくドリブルをするというチームでした。普段からドリブルしかしていないという感じだったので、おかげで足元の技術はチームの中で一番ある方だったと思います。しかし、パスや戦術という話になると本当に理解が遅い。そこに時間がかかってしまいました。
また、中学2年生の時に急激に身長が伸びて『クラムジー』(※体が急激に成長することによって起こる体の不調やパフォーマンスの低下)を経験しました。1年間で14cmくらい伸びて、自分のプレーができなくなってしまいました。全国大会のメンバーに入ってもスランプが続いていて、本当にきつかったですね」
――大変な経験でしたね。
「サッカーをやめようかなと思ったけれど、『やめて何するの?』と親に言われました。父もクラムジーを経験したことがあったそうなんです。オフの日は夕方に、父と一緒に近くの公園でひたすらアジリティートレーニングをしたら、コンディションもだいぶ戻ってきて、中学3年生の時は全国大会で優勝できました。そこで初めて、世代別代表にも呼ばれました。そこでの大きな経験が、今につながってるかなと思います」
――苦境を乗り越えて、今プロとして躍動できていますね。
「そうですね。その前にも『壁』はありました。最初に感じたのは、小学時代のナショトレの選考漏れ。相当悔しかったですね。関東トレセンから、私1人だけが落ちてしまいました。周りはみんなナショナルトレセンに入っていきました。壁の連続のようなサッカー人生ですが、そういう悔しさは忘れずにいます」
――ジュニアユースからユースへというステップは順調でしたか?
「はい。そこはスムーズにいきましたね。高校時代はやっぱりトップに上がりたいという気持ちがさらに強くなった3年間だったんですけど、WEリーグ発足の年で、人の出入りなどもあり、タイミング的にも実力的にも難しかったです。そこでサッカーを辞めてしまおうかなとも考えていたんです。その高校3年生の時に、今の東京NB監督の楠瀬直木さんが1年間だけ浦和Lユースの監督をしていました。元々日体大とのつながりもあって、練習試合を組んでくれて、そこで日体大から声がかかりました」

大けがを乗り越えた大学時代。子どもの頃の夢は今も変わらず持ち続けている
――そういう経緯で大学でもサッカーを続けていくことができたのですね。大学時代はさらに山あり谷ありだったのでは?
「はい。1年生の時は、ほぼ1年間スタメンでなでしこリーグに出ることができました。コンディションもとても良かったんですけど、2年生の開幕直前に膝の大けがをしてしまいました。そこからほぼ2年間、プレーはできない状態でした」
――大きな試練です。そこからどのように復活して4年生を迎えたのですか?
「正直、リハビリは孤独で本当にきつかったです。膝のけがの経験も初めてだったので、前十字靭帯断裂ってこんなに大変なんだ、と。リハビリも周りの選手よりうまくいっていなかったです。4ヶ所切れてしまって、復帰までの時期も長かった。その時に、自分が一番大事にしていたことは、『自分の理想像、未来像、そうなりたいか』をしっかりイメージすることでした」
――どんな風に理想像を思い描いていましたか?
「小学校2年生の頃から、なでしこジャパンに入って、ワールドカップで優勝するという夢を持ちました。そこから夢はずっと変わらず、その軸をぶらさずに日々やり続けていたら、ありがたいことにマイナビ仙台レディースからオファーが届きました。強化部の方が見つけてくれて、加入はスムーズに決まりました」
――大西選手が小学校2年生の時は2011年。なでしこジャパンがワールドカップで優勝した年ですね。
「はい。普通にボールを蹴ることが楽しいからサッカーを始めたんですけど、なでしこジャパンの戦いを見ていて、同じ女性の方たちが日本代表のエンブレム背負って世界と戦って優勝した。とてもキラキラした映像を見た時に、そこで夢ができましたね。川澄奈穂美さん(アルビレックス新潟レディース)が推しでした」
――WEリーグでは川澄選手と対戦もしますよね。
「はい。もちろん憧れは強かったんですけど、今は超えていかないといけない存在だなっていうことも強く感じますね」
――まだプロとして2シーズン目。今後、大西選手はどんな選手になっていきたいですか?
「サッカー選手は、人間性という部分も大事だと思っています。身の回りには、本当に当たり前ではないことが溢れている。環境も含め、そこへの感謝は絶対なくさずにいたいです。サッカーは団体スポーツ。自分がどんな状況でも、チームがどんな状況だとしても、仲間が一人も欠けることのないように、困っている人がいたら手を差し伸べられるような選手でありたいです。
サッカーに関しては、いずれは海外に行きたいという思いは抱き続けていますが、もっと日本で実力をつけられる部分もあるし、もっとWEリーグで、マイナビ仙台レディースで知名度を上げていかなければいけない。そういう選手になっていけたらと思います」
――子どもたちに何かアドバイスをするとしたら、どういうことを伝えたいですか?
「スポーツでもいいし、何でも良い。夢中になれることが見つかった時に、自分が心の底から楽しいって思ってやって欲しいです。続けていく中で、人間関係や環境、辛いことやいろんな経験があると思います。結局『そういう経験はこの先に生きるよ』と伝えたいですね。年を重ねるごとに考え方も変わっていきます。子どもたちはまだ経験が浅いので、涙する子もいると思います。でもその涙には、この先絶対意味がある。そういうことを私はたくさん経験してきたので、それは伝えたいことですね」

文・写真=村林いづみ