【マイヒストリー】齋藤 彩佳選手

マイヒストリー

「当たり前が当たり前ではないことを伝え続ける。仙台と、ともに歩んでゆく」 
1 GK 齋藤 彩佳選手

マイナビ仙台レディースの選手に、これまでの歩みを振り返ってもらう「マイヒストリー」。それぞれのサッカー人生に物語があり、かけがえのない記憶があります。第3回はチームの前身、ベガルタ仙台レディース、さらにその前の「マリーゼ時代」を知るGK齋藤彩佳選手です。誰よりもこの地でクラブを、チームを、サポーターを見つめ続けてきた彼女の言葉をお届けします。

「千葉から出ていけ!」愛あるコーチの助言で開かれた道。

――千葉県ご出身の齋藤選手がサッカーを始めたきっかけはどのようなことでしたか?

「3歳年上の兄がサッカーを始める時に『面白いじゃん』と思い、ついていって始めました。6歳の時です。単純に外で遊ぶことが大好きで、兄がサッカーをしているのを見て、私もやりたいと思いました。遊びの一つというか、体を動かせることが楽しかったです。」

――チームに他の女の子はいましたか?

「同じ学年ではもう一人だけでしたが、2学年上にも女子がいました。男子メインのチームでしたが、抵抗なく入っていきました。」

――その頃からポジションはGKだったのですか?

「いえいえ。そんなに強いチームではなかったので、フィールドプレーヤーなどポジションはいろいろやっていました。いわゆる、だんごサッカーでした(笑)小学校年代ではチームを掛け持ちしていて、男子と一緒にプレーする松ヶ丘FCと女子チームの千葉中央FC、両方に所属していました。千葉中央FCは小学校3年生にならないと入れないチーム。関東大会に出るような強いチームでもありました。どちらも楽しかったです。」

――齋藤選手は現在174cm。小さい頃から身長が高かったのですか?

「ずっと大きかったですね。(背の順で)一番前を知りません。小学校に入る前から大きかったですよ。生後10ヶ月くらいで、もう走り回っていたと聞きました(笑)」

写真=本人提供
写真=本人提供

――それはすご過ぎます!さて、サッカーの話に戻ると、中学校年代では蘇我SCLでプレーしました。どのようなチームでしたか?

「このチームは社会人チームだったんです。中学生から大人までいました。小学校で一緒にプレーしていた仲良しのメンバーもいました。監督は元Jリーガーの新明正広さん(札幌、甲府でプレー)だったんです。チームでは大人の選手と一緒にプレーしていましたが、中学生とはレベルが違い過ぎて……。あまり試合に関われなかったです。それでも楽しかったですね。」

――その後、地元の千葉を離れて、仙台の常盤木学園高等学校に進学します。どのような経緯だったのでしょうか?

「小学生、中学生の時によくトレセンに行っていました。そこで菅澤優衣香選手(浦和)とも一緒にプレーしていました。U-15の千葉トレセンの中から、更に選抜でドイツ遠征に行けるというタイミングがありました。その選考会で残念ながら私は選ばれなかったんです。どうして?という思いもあったんですが、当時のGKコーチがその先の私のことを思って(高校年代では)『千葉から出ていけ』とアドバイスをくれました。そして埼玉や宮城の高校など、いくつか新しい道の候補を挙げてくれたんです。中学の先生にそのことを伝えたら、たまたま常盤木の阿部(由晴)先生を知っていて、連絡を取ってくれました。いくつかの高校で練習参加をした後で、最後に常盤木に行ったら『ここだ!』と思いました。阿部先生からも『来てくれるなら』と嬉しい返事を頂けました。こうした人とのつながりで常盤木に行くことができたと思っています。」

――15歳で親元を離れる大きな決断ですね。

「当時のGKコーチが私のことをよく見ていてくれて『千葉から出ていけ』と愛情を持って進めてくれたんです。全く悪い意味ではなく、前向きに。そう言われなければ、千葉にいたと思います。その一言が、新しい環境を求めて地元を出る判断にもつながりました。親もそれに賛同してくれて挑戦できました。私も親も、コーチの言葉で納得できたんですよね。私のために、ということでしたから。」

――常盤木学園での日々はいかがでしたか?

「3年間、阿部先生は怖かったですよ。でも私はサッカーをするために入学したし、その3年間がなかったら、年代別の代表にも入ってないし、全国大会で優勝するという経験もできなかった。今同じチームになった(後藤)三知との出会いもなかったと思うし、偉大な先輩の背中も見られなかったと思います。怖かったし、辛かったけど、この3年間が今も生きています。」

マリーゼで始まったサッカー選手のキャリア。全てを変えてしまった東日本大震災。

――2010年に東京電力女子サッカー部マリーゼに入団しました。高校を卒業して迎えたルーキーイヤー、チームはどんな雰囲気でしたか?

「菅野将晃さん(N相模原)が監督で、正木裕史さん(浦和)がコーチ、GKコーチは西入俊浩さん(なでしこジャパン)。仲の良いチームでした。2歳上の常盤木の先輩もいましたね。入団した当初は、先輩たちは……怖かったです(笑)同期で入った選手たちと、常に一緒に固まっていました。先輩たちは若手を導こうとしていろんなアドバイスをくれました。厳しさの中に優しさもありました。寮でみんな一緒に集まって、パーティーをしたこともありました。」

――マリーゼで2年目を迎えた2011年の3月11日、東日本大震災が発生しました。多くの方の運命を変えた出来事でした。

「マリーゼは宮崎で合宿をしていました。福島にはいなかったので実際に地震の被害を受けたわけではなかったんです。とても驚きましたが、最初は実感がありませんでした。あの日はグラウンドに練習に行っていたのですが、突然練習が止まって『スパイクは脱がなくていいから、とにかくバスに乗り込んで』と言われました。何事かと思いながら宿舎に帰りました。2階の部屋に集められて、小さなテレビをみんなで見ました。そこで初めて映像で、東北が大変なことになっていると知りました。」

――実際に揺れや被害を経験していなくても、映像を見て、また知っている方のことが心配で、気が気ではなかったでしょう。

「地震や津波の被害の映像を見て、言葉を失いました。岩手県出身の選手もいました。家族と連絡が取れず泣いてしまった人もいました。翌日、ニュースで原発事故のことを知りました。ほとんどの選手は『今、サッカーをしている場合ではない』と感じ、監督の判断で練習は取りやめになりました。それぞれが、『今後どうなるんだろう』という不安を抱えていました。その後、キャンプは中止になって、チームは一時解散となりました。入団してきたばかりの選手、私のような若手に限らず、みんながどうなるのかわからない状態。自分たちの所属している会社がこういうことになっているのに、自分たちだけがサッカーを続けていいのか、みんなで話していました。ここでバラバラになってしまうのかという不安を感じながら、一度実家に帰りました。」

――先の見えない不安な時期を過ごしたのですね。再度集まることになったきっかけは?

「正木さんたちが動いてくれて、どうにかサッカーを続けられる環境を作ろうとしているという連絡は入っていました。そこに望みを懸けるしかなかったです。サッカーをしたいという思いは消えていませんでした。続けられる環境があるのならば、そこでサッカーをしたいと伝えて、再び集まることができる日を待っていました。その間、ジェフ千葉でお世話になったのですが、家族の体調不良もあって練習に行けなくなり、ほとんど練習できない状況でした。そのさなか、マリーゼがベガルタ仙台に移管されるということが決まりました。」

仙台でもう一度、一緒に。「サッカーができる環境は当たり前じゃない」

――2012年、ベガルタ仙台レディースが誕生しました。そこでマリーゼでプレーしていた仲間たちともう一度サッカーをできることになりました。

「もう喜びしかなかったです。みんなと一緒にできることも、サッカーが続けられることも。移管できてサッカーがもう一度できると知った時は、嬉しいという表現以上の感情でした。」

――齋藤選手はずっと「何不自由なくサッカーができるということは当たり前ではない」と言っていますね。

「当たり前じゃないですね。小学校からサッカーを続けてきて、チームを掛け持ちしても、いつも両親が送迎をしてくれました。土日もサッカーをして、高校でもサッカーができて、マリーゼに入団できました。しかし、それまで続けてきたサッカーをするという当たり前の生活が、震災で180度変わったという経験をしました。それを経験したからこそ、当たり前なんてないんだということを知ることができました。」

――高校でプレーした仙台に戻ってくるというのも不思議なご縁ですね。

「本当にそうですね。移管先が決まったというタイミングで、一度会社に集まって説明を受けました。一度、仙台の練習環境などを見学に行くということになり、案内されたのが、ここ(マイナビベガルタ仙台泉パークタウンサッカー場)でした。常盤木の頃に、ベガルタと練習試合をした場所だと思い出しました。『ここ、知ってる!』って。まさかここが自分たちの練習場になるとは、と驚きましたね。」

――ベガルタ仙台レディースで歩み始めて、そこからどんどんメンバーも変わってきましたが、齋藤選手は変わらずここにいます。

「いえ、私はみんなの前に出ていくタイプではないので、移管してきたお姉さんたちの背中にずっと頼っていました。だからこそ、先輩たちがそれぞれの道に進んだ後も、つないでもらったものを無くしたくない、自分がつないでいかなきゃという思いは強く持っています。私たちが経験した当たり前じゃなくなったことを、これからのみんなには経験してもらいたくない。でも、今の環境って当たり前じゃないんです。若い選手たちが『これが当たり前だ』と思って、これからの道に進んでいくと苦労すると思う。だから当たり前じゃないということを伝える役割を、自分がしていかなきゃいけないと思います。」

いつでもチームとともに歩む。チームの過去・現在・未来を見つめ、つなぐ役割。

――長くサッカーを続けてきた中で、試合に出られた時期もあれば、GKというポジション上、支える側に回ることも多かったと思います。そういう中でもサッカーができる喜びは大きかったですか?

「やっぱりサッカーが好きだから。どういう状況に置かれても、自分のできることをやらなきゃいけないと、今は思うことができるようになりました。出会ったコーチがそう思わせてくれたんですよね。昔の私なら、試合に出られていない状況でふて腐れ、練習をおろそかにしていたと思います。でもそういう時に怒ってくれたり、長い時間練習に付き合ってくれた人がいたから、今の自分があると思います。」

――出番が急に巡ってきても、齋藤選手は完璧な準備をしています。ベテランと言われる今も、常に誰より遅く、最後までピッチに残って練習していますね。

「試合に出ていないんだったら出ている人よりやらない限り、チャンスは巡ってこないです。やり続けていることは誰かが見てくれている。そういうことがいつ試合に出ても良い準備になるとコーチに教えてもらったんですよね。それが当たり前だと思えるようになりました。今現在試合に出られていないのであれば、限られた時間の中でやらなきゃいけない。練習場を後にするのが最後になろうと、練習をしようと決めています。」

――2021年にWEリーグが開幕し、マイナビ仙台レディースが生まれました。こう考えると、齋藤選手は仙台でクラブの全歴史を経験していますね。

「はい。これって誰もができることではないですよね。自分自身も、置かれている立場を理解してやっていかなければいけないと思っています。マイナビ仙台レディースはまだ始まったばかりのチーム。この先、10年、20年と続く歴史を作っていかなければいけない。現状に満足せずに、もっと多くの方に応援してもらえるチームに成長していかなければいけないとすごく思っています。今まで培ってきた歴史を大事に、もっともっとこのチームと一緒に進みたいと思って所属しています。」

――サッカーを続けていく中で結果が出なかったり、上手くいかない難しい時期は訪れます。一丸になりきれない時もあるかもしれません。そういう時にどういうことを考えますか?

「上手くいっていない時は、どうしても人間なので、矢印がいろんな方向に向いて行ってしまう。選手個人としても、気持ちの上下で一気に崩れてしまう時もあります。そういう時には、『練習を最後まで残ってやる』とか、自分の中で曲げないものを何か一つ作ること。そしてその姿を見せれば、必然的に周りもやってくれるんじゃないかなと思っています。私は多くを語れる人間ではないから、姿勢を見せるしかない。今も苦しい時期ですけど、『FW陣はもっとシュートを打とうよ!』と言葉で言わなくてもやれるように、そっとゴール前に入ったりとか。そうやって苦しい時こそ、すべきことがあるんじゃないかということを姿で表せるようにしたいです。」

――将来、プロサッカー選手を目指す子どもたちにはどんな声をかけたいですか?

「サッカーを続けていけば、苦しいことも辛いこともあります。それでもプロになる選手は本当にサッカーが好きで、どんな苦しい練習も乗り越えてきています。目先のことだけで判断せず、今やっていることがこれからに生きてくると信じて、やり続けることが大事だと思います。夢があるからこそ、人間は動けると思うので、夢を叶えるために、今何ができるか、何をすべきかを考えて欲しい。できることから一つずつ、乗り越えて行って欲しいです。あとは楽しむことを忘れずに。夢があることは良いことだから。」

文・写真=村林いづみ
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