「主将、海外生活、けが。与えられた全ての経験をこれからの人生に生かすために」
11 FW 後藤 三知選手
マイナビ仙台レディースの選手に、これまでの歩みを振り返ってもらう「マイヒストリー」。それぞれのサッカー人生に物語があり、かけがえのない記憶があります。第4回はFW後藤三知選手です。2022-23シーズンに仙台に加入後、度重なるけがに向き合ってきました。リハビリを終えて2月のキャンプ直前に全体練習に合流を果たした彼女の豊かな経験、そして今の言葉をお届けします。
けがからの復活。これからチームにどれだけ還元していけるか。
――1月29日の練習場で、後藤選手が遂にスパイクを履いてボールを蹴る姿を見ることができました。
「若手主体の練習の時でしたね。(※この時期、全体練習はオフ期間。指定選手のみが集合してトレーニングを行っていた)全体合流という形で、全てのメニューには入れることになったのがその時期でした。」
――今、みんなと一緒にサッカーができるというのはどのような気持ちですか?
「そうですね。今振り返ってもけがをする前の自分には戻りたいと思わないような、長い歳月がありました。長い期間チームの勝利に貢献することができなかったということは、本当にいろんな思いを抱えてきました。しかし、“その時間があったから今の自分がある”と言えるような時を過ごしてきたと言い切れるので、このけがを乗り越えた上で、できることをチームにどれだけ還元していけるか、ということを考えています。」
――リハビリ期間の思いは?
「20代、一つも大きなけがをせずプレーすることができていました。サッカーができないという経験をしてこなかったことに対して、その気持ちを知ることができました。多くの選手がけがを経て選手としてやっていると思いますが、経験しなければわからないことを知りました。けがをしてしまった原因は一つに定めることはできないし、ここをこうすれば良かったという簡単なことではないです。1度だけではなく、違う場所もけがをしたりして、すごく長いリハビリ期間になりました。」
――外から見て学ぶものも多くありましたか?
「はい。ピッチの中にいるからこそ見られるものもありますが、何を認識できるか、考え方という部分では外にいても養えるものです。サッカーの状況や起こっているものごとをどのように見るかということは、取り組める部分だったんです。ピッチ外にいてできることをすることによって、戻ってきた時に見えるものが変わる。いく方向も違うし、行動も変わってくると思います。土台の部分、試合を毎週迎えながら課題に取り組んでいくベースを、どう起こったことを認識して行動するか。そこが変わると、より良い選択ができるようになってきます。そういう改善を図れたということが大きかったと思っています。」
言葉を尽くして思いを伝える。浦和で主将を務めた経験。
――後藤選手はどんな時も理路整然とものごとを捉え、言葉を尽くして説明してくれる印象があります。
「そうですか?でも、それは浦和レッズ時代にキャプテンをやらせてもらったことも影響しています。自分がどうというより、チームにどういうことが起こっていて、どのようになっていこうとしているかということを言葉にして伝えることが多かったからですね。誰かに感謝をするにしても、具体的に何に感謝をしているかまで伝えられることによって、感謝という言葉だけでは届かないものも届けられるようにできたらいいな、ということも考えて時間が多かったですね。それが今につながっているのかもしれないです。」
――浦和レッズレディース時代、最初は早稲田大学に通いながら、8年間プレーしました。どのような思い出がありますか?
「2013年にキャプテンになったということが一つのターニングポイントでした。それまでレッズレディースを引っ張ってきた選手たちが、入れ替わるタイミングだったんです。“レッズと言えば”という選手たちがチームを離れ、若返るタイミングでした。私がチームに入ったのが2009年でしたが、レッズレディースとしては3年目。まず浦和レッズというクラブの女子チームとなれたことに、当時いた選手みんなが感謝していて、大きな環境の変化の中で結果を出したいというシーズンでした。優勝に向かっているチームの中に、高校を卒業したばかりの18歳で飛び込みました。2トップは安藤(梢)さんと北本(綾子)さんで、私はサイドをやらせてもらっていました。槍のように仕掛け、中にボールを入れれば、あとは二人が何とかしてくれる(笑)点を取れる人たちでした。そういう中でやっていたのが18歳の時。チームが優勝して、安藤さんはMVPになりました。その後、安藤さんがドイツに行かれて、少しずつ選手も入れ替わっていたのですが、中心選手たちが引退したり、他のチームに移籍したりして若返っていました。」
――クラブの転換期、大きな変化ですね。
「その時に感じたのは、『このままではレッズレディースの価値を下げてしまう』ということでした。それは嫌だなと思いました。上手くいかないことはたくさんありましたが、チームの誰もがレッズでプレーできることに感謝していたり、誇りに思っていました。私も、若い時から育ててもらったチームだったので、そこでレッズのレベルが下がり、価値が下がってしまったらだめだと思いました。私のキャプテンとしての始まりはそこだったんです。」
――そういう思いを抱えてのキャプテン就任は大変だったのではないですか?
「そのシーズンは苦しんでいて下位争いもしました。最終節で勝って、順位は6位まで上がったのですが、終盤はギリギリの戦いで、(なでしこリーグ1部)残留を何とか決められたというシーズン。レッズレディースがいるべき場所ではないところでシーズンが終わりました。シーズン途中に監督が代わってというのは、昨季のマイナビと同じような状況です。オフシーズンはかなり走りこみました。準備をして臨んだ次のシーズンに優勝できました。」
――チームが大きく切り替わった瞬間ですね。
「はい。レッズ時代、何が一番大変だったかな?と聞かれると、真っ先に思い出すのはその時ですね。できないことにばかり目を向けても仕方ない。今できることをやるというメンタリティーを養うことができた期間でした。それは今のマイナビにも必要なことです。どうしても自分たちではコントロールできないこともあります。思ってもいなかったことが起きたりします。そういうことはサッカー中にもあると思うんです。チームの状況が思わしくない時もある。それをどうにかしようとしても難しいから、できることに集中する。その集中することの中身もどんどんアップデートしていかないと、できることは増えていかない。」
――簡単なことではないですよね。
「勝負するメンタリティーというところでは、皇后杯の前に考えたことがありました。上手くいっていないと、上手くいっていないことやチームで起きていることに意識が行ってしまう。でも、ピッチに入ったら、そこへは何も持って行けないんです。皇后杯でのなでしこリーグなど対戦チームにとっては、どれだけプロであるマイナビの環境が良くて、サッカーに集中できる状況を整えてもらっているか。どんなチームと対戦するとしても、ピッチの中に入ったらそんなことは関係なくて、全て0-0から試合が始まる。そこには理由や言い訳を持ち込めない。ただサッカーだけで勝ち負けを競う。そこで何ができるかの勝負なので、そのために必要なことは要求していくべきだし、そのために準備をしています。」
――「ピッチの上で戦うのは自分たち」と、選手の皆さんはよく言いますね。
「シンプルだけど、そういう勝負の上でのメンタリティーは持っていないと。勝ち負けを左右する時に、自分たちではどうもできないことに意識を使ってしまうと、良い準備ができない。そういう土台があって、優勝に向かっていくんです。WEリーグが始まった最初の1年はINAC神戸に所属しましたが、優勝したチームにいたことによって、そこには勝負のメンタリティーがあるんだと知りました。今、マイナビは土台を作って価値を重ねている。強いチームになるための時間を過ごしていると思います。レッズ時代にもそういう経験をしたなということは、今シーズンすごく思い出しています。」
環境の変化と成長を求めスペインへ。選んだのはより厳しい道。
――それだけの経験を若い時に味わうと、心身ともに本当に鍛えられますよね。レッズでの8年間を経て、スペインへ渡りました。これは大きな決断ですね。
「レッズで様々な経験をさせてもらいましたが、その時は自分自身がそこでより良くなっていく未来を思い描くことができなかったんです。選手としても、一人の人間としても。“レッズレディースの後藤三知”というものが出来上がってしまっていました。選手としては“こういうタイプでこういう選手だ”、人としても“三知さんってこういう人だよね“という像が出来上がってしまって、そういう期待に応えようとし過ぎていたんですよね。そうしたら窮屈になってしまって……。」
――そういうことってありますよね。
「これはもう外にでなきゃだめだと思いました。長くそこにいると居場所もできていきますよね。いろいろなことがやりやすい環境になっていく。その期待にも応えたくもなるし。でも、出来上がっていたものの中にいることが違和感になってしまったんです。それを期待に応えながら変えていくということが、私にとっては難しかったんです。当時の私にはできなかった。その頃、長野風花選手もいたし、若い良い選手もどんどん出てきた。私がいようがいまいが、チームはより良くなっていくだろうという思いもありました。チームが変わる一番大きなところを乗り越えられたから。だったら、自分ももっと成長しなきゃと思ったんです。安定していましたし、居心地も良かった。全ての力も注いできたと思っていたから、出させてもらいたいとクラブに話しました。」
――しかし、なかなか勇気がいることです。
「それ以上に、そこに居続けること、自分の中で作り上げてしまったものを破ることも難しかった。同じ環境の中で変化していくことも、当時の私には難しかったですね。」
――実際にスペインで環境を大きく変えました。どのような経験でしたか?
「いや……、たくさん後悔もあります。あれほど、自己評価が下がった時期もなかったです。レッズの時には、長年いたので環境も人間関係も不自由なくやっていた。そこから、言葉も通じ合えず、生活や文化の当たり前が違う中で、あらゆることを教えてもらいながらやっていかなければいけなかった。サッカーについても、スペインで深く根付いている当たり前の文化は、日本人の私には当たり前ではなかったりする。それを見て、聞いて、獲得しつつ、自分は外国籍選手として、そこにいるからこそのプレーを発揮していかなければいけない。本当に、簡単ではなかったです。今、海外でプレーしている男子の選手を見ていると、ちゃんと準備をしていっていますよね。そこに通訳さんもいたら、また違うと思いますし。」
――海外に、一人で立ってみなければわからないことです。
「レッズでやっていた時は私だけの力ではなくチームとして積みあがっているものあった。そして全体として発揮できるものがあったんです。またスペインのチームで新たに構築していかなければいけない。自分一人はどれだけちっぽけなんだろうと思いました。もっともっと自分ができることを認識していたら、違っただろうとも思います。過小評価をし過ぎていたかもしれない。でも自信を失ってしまいそうになるくらい、言葉が通じないことや通じ合えない難しさを感じました。あれほど、いろんなことを考え、サッカー選手である前に、人としての部分に向き合う経験は他にはなかったです。」
――今、マイナビにも多くの外国籍選手がいますが、彼女たちの気持ちが痛いほどわかるのではないですか?
「そうですね。そういう意味では、彼女たちの気持ちを酌んだ上でコミュニケーションを取りたいと思います。助けてくれる通訳の方々がいるのこともすごく大きいと思います。でもコミュニケーションの上では、言葉以前に伝わってくるものも大きいと思うんです。そういうものがどれだけ大きく、また自分も助けられたか知っています。できるだけ、言葉でもわかり合えるようにしたいと思っています。」
WEリーグ発足で日本へ。間近で感じた欧州女子サッカーの変化。
――2021年にWEリーグが発足。スペインでの4年半を経て帰国し、INAC神戸レオネッサへ加入しました。日本に女子のプロリーグができたということは、後藤選手にとってどんな意味がありましたか?
「スペインにいた4年半で、スペインの女子サッカーの環境が毎年変わっていったんです。2019年の女子ワールドカップでアメリカが優勝したこともあり、ヨーロッパが女子サッカーに力を入れ始めたタイミングでした。スペインも4年半でプレーする選手がガラッと変わったわけではないんです。でも監督やコーチなど関わる人材や環境面が変わり、かけられるお金が変わったりして、リーグ自体のレベルが少しずつ変化していったんです。その様子をプレーしながら目の当たりにしました。コロナ禍でもありましたが、選手たちが自分たちから声をあげて、環境を変えていこうとしていたんです。ストライキもしました。そういう変化を知った時に、日本にWEリーグができると聞きました。日本がもう一度世界の舞台で一番になるという目標を掲げて、WEリーグが始まると聞いたので、日本に帰ってプレーしたいと思ったことがきっかけでした。日本の女子サッカーが変わっていくところにも関わりたいと思うようになったんです。」
――そのWEリーグ元年はINAC神戸で過ごしました。
「その年はレッズ時代の2009年と同じで、I神戸が優勝を目指す年でした。クラブ創設20周年でしたし、WEリーグ立ち上げの初年度でした。一方で自分の状態はどうかというと、I神戸加入直前にいたのは、スペインの最後のクラブ(アラマCFエルポソ)。外国人助っ人として繰り返しオファーを頂いていたクラブでした。そこで期待されていたのは、クラブを残留させること。私が加入した時にはチームは3連敗していて、初日のミーティングもものすごい雰囲気でした。監督は『次負けたら、自分は解任。大型スポンサーも撤退』という話をしていました。すごいタイミングで来てしまったな、と。次の試合に出て、結果を出さなければいけない。そのための移籍でした。やれることをやって、まず1試合勝ちました。残り2試合が大事だったのですが、紅白戦で膝を痛めてしまいました。それでも試合には出なければいけない。注射を打ってでも試合に出ようということになりました。初めての経験でした。結果的には勝つことができて、監督も指揮を継続し、大型スポンサーも離れないで済みました。そこからのクラブの歴史は、1部でレアル・マドリードと戦い、どんどん良い方向へ進んでいきました。しかし、私にとっては膝の急性期に無理をしたことが自分の体に大きく残りました。」
――そうしなければいけない状況とは言え、過酷な選択です。
「でもそれは自分自身で選んだ道でした。スペインは日本と違って、試合のためにしっかり休むんです。休んでケアをしながら試合ができていた。そうした状況も踏まえてI神戸と話を重ねて、入団が決まりました。そこで日本に帰ってきましたが、毎週試合が来る。その試合に向かって日々ハードにトレーニングしているチームで、プレシーズンマッチの頃だったと思うのですが、疲労がたまり、膝の状態が悪化しました。そして初年度は「結果的に『膝と向き合うシーズン』になってしまいました。チームは優勝を目指して一戦一戦戦っていて、今もチームメートの(中島)依美ちゃんがキャプテンとして中心になって勝利のメンタリティーを養いながらやっていました。そういうムードでの中で過ごした一年、サッカーができず、思うように両足を使えない状況を経験しました。なかなかすることのない経験でした。」
高校時代を過ごした仙台へ。選手として、一人の人間として、学びの日は続く。
――その翌年にマイナビ仙台レディースに移籍しました。ここまでの1年半、けして平坦な道ではなかったかもしれませんが、どのような日々ですか?
「まずは、常盤木学園高校時代を思い出しますよね(笑)高校ではとにかくやれることをすべてやった3年間でした。むしろそこまでやる必要があったのか?と今なら思いますけど(笑)あれ以上はできなかったと言い切れる3年間を過ごした場でした。そういう意味では、年数・経験を重ねて、いろいろなところでサッカーをして帰ってきた場所です。改めてそこへの感謝と、マイナビというチームでWEリーグに参戦して2年目、しっかりと土台を作って目指すところに向かっていくチームだと思うので、若い選手でもこれから楽しみな選手もいますね。依美ちゃんも同じタイミングで入ってくれたので、そういう選手と共にやっていけるのは嬉しいですね。私たち選手にとっては一年一年が勝負の年ではあると思いますが、常に上位で戦えるチームになるかと言ったら、そんな簡単なものではないです。しっかりした土台を作っていく必要がある時期にいるなと思います。」
――後藤選手はチーム全体やリーグ、サッカー界全体を広い視野で見つめていますよね。
「そこまで見ようという風には考えていないのですが、もっと良くなっていくために全体が良くなっていくことが望ましいわけで、となると今どういう状況でどうしていけばいいのか考えるんです。今日一日もより良く過ごしたいという気持ちがあるんです。狭いところだけ、今のここだけを見ていても仕方ないから、そんな風に考えるようになったのかなと思います。」
――一人の選手としては、今後どんな風に歩んでいきたいですか?
「選手としてプレーできるということがどれほどのことなのか、ということを思い知ったここ数年だったので、そこへの感謝を持って行きたいです。様々なことを経てきた上で自分がプレーして、ゴールを決めて、チームが勝つこと。過去にはそういうことに、正直価値を感じて来られなかったんです。でも今は、しっかりとゴールという形でチームの勝利に貢献したいですし、そのためのプレーを重ねていきたい。そこに選手として価値を見出していきたいと思っています。チームとしても前半の戦いを経て、勝てなかったという結果の中で勝てなかった理由が様々にある。一つ一つ改善しながら後半戦を迎えようとしているので、そこを改善するということに価値があると思うし、それをみんなとやりながら個人としてどれだけゴールという形で一つ一つのプレーによって勝つ可能性を高められるか。そういうことをやっていきたいと思っています。」
――後藤選手のお話はとても深くて、なんだか講義を受けているような気持ちにもなります。
「いやいや。本当に自分が全然だめだと、こんなにもできない、知らない、間違えるんだなぁって、思い知ったからですよ。全部の経験で後悔して、でもその機会も人間関係も物も全て与えてもらっていると思うんです。キャンプでタイに行ってみんなも経験したんですが、恵まれている。いろんなものを既に与えられているのに、生かし切ってこなかったという思いが、過去にもあるんです。もっと与えられたものをよりよく生かしたいという思いがあります。日々もっと改善できるんじゃないかなって思っています。」
文・写真=村林いづみ